ビートルズの足跡をたどってみよう。一五歳のとき、ジョンは不良仲間を集めて、学生バンド「クォリイメン」を結成した(一九五六年三月)。やがてこのグループにはポールも加わるが、彼らはエネルギーをロックのリズムに託し、借りものでない自分の歌声で怒りやもやもやした気分を吐き出していった。権威への反抗でもあった。ジョージもメンバーになり、一九六〇年にはグループ名をビートルズに改名、ドイツのハンブルグへ初の巡業に出る。ハンブルグもビートルズには、似合いの地であった。リバプールと同様に、川岸にある港町ハンブルグのうるおいのない空気の中では、いかがわしい取引が進み、犯罪があり、売春があった。彼らはここで、さらに粗野で激しい演奏をくり広げる。もともとビートルズの話し方や身のこなしは、イギリスの労働者階級のものであり、上流階級にはなじまないことは確かであった。しかし彼らを受け入れてくれたハンブルグでは、アルコールと脂粉が混ざり合う狼雑さに合わせ、好奇心をふくらませながら、周囲に挑戦するように、ステージをつとめていった。その年の暮れ、リバプールで開いたコンサートでは、ハンブルグ仕込みの演奏により大成功を収めることになる。どこかで荒っぽい気風が残されている町の歴史が、彼らを受けとめてくれたのだ。翌年、ビートルズはリバプールのキャヴァーンクラブのメンバーとなり、一九六二年八月にはリンゴが加入、十月には最初のシングル・レコード「LoveMeDo」発表される。そして、二枚目のシングル「PleasePleaseMe」が、イギリスのヒット・チャートで一位になるのは、翌六三年一月のことであった。いまのリバプールは、ビートルズが残してくれた「遺産」に頼らざるを得ないのかもしれない。観光の目玉としても、野球にたとえるなら、ビートルズは押さえのエースといった存在である。マジカル・ミステリー・ツアーと銘うつバスは、ストロベリーフィールズ、ペニー・レイン、マシュー・ストリートといったビートルズゆかりの地をまわり、四人が生まれ育つたといわれる家々や学校を案内してくれる。また、港で一五〇年の歴史を持つアルバート波止場の一角には、一九九〇年に出来た丸天井のブリタニア・パビリオンがあり、ここにはビートルズの歴史が一目瞭然でわかる仕掛けがある。一八のパートに分かれた「ザ・ビートルズ・ストーリー」がそれで、ハンブルグでの巡業の模様、アメリカでの熱狂ぶり、アビィ・ロードのスタジオでの収録風景から、グループの解散、ジョン・レノンの死へと、四人組の歩みが展示、紹介されている。観光シーズンのパビリオンは見物客で賑わうが、見方を変えれば、かつては大英帝国のトップランナーとして胸をはっていたリバプールが、いつまでもビートルズの名残を追っているのは、地元の人にとっては不本意な話なのかもしれない。